感想文が書けないこども

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社会的マイノリティーから見た「おおかみこどもの雨と雪」

( *このブログは映画の内容について言及しています )


おおかみこどもの雨と雪」が公開され、ネット上で色々な感想を見かけるようになった。家族の物語とか、母は強いとか、そういったものを見て反感を抱いていた。私は家族の素晴らしさなどというものが好きではない。けれどひねくれた性格なので意気込んで映画館へ観に行った。

前半からキラキラした世界に対しまっすぐ見られず、ひねくれ根性で斜めに見ていた。それなのに“雨”と“雪”が生まれてから、まったく予想もしない心の動きが自分の中で起こる。私は、雨と雪だけをずっと見ていた。

話の大筋はこのようなものだ。
主人公の花はおおかみおとこと恋をし、二人のこどもを授かる。女の子の“雪”と男の子の“雨”。おおかみおとこは事故で亡くなり、花は一人で二人のこどもを育てることを決意する。やがて“雪”と“雨”は成長し都会での生活が難しくなり、山あいの人付き合いが少ないような土地へ引っ越す。そして、二人がおおかみこどもだとバレないように生活していく。

私が目を離せなくなったのはこの後からだ。
活発な姉の“雪”は、消極的で臆病な弟の“雨”をひっぱって行動していく。けれど段々と“雪”は人間の社会に馴染もうと、学校でもおしとやかにふるまっていく。それと対照的に“雨”は、山の中へ入るようになり、狼として生きていこうとする。その姿を見て、私自身と重ね合わせずにはいられなかった。


社会においての「おおかみこども」とは何か

「おおかみこども」とは、狼としても人間としても中途半端な生き物である。そういった者は社会から存在を認められず、結果的に社会から隠れて生きていくことになる。この社会にはそういった多くの「おおかみこども」達がいる。いわゆる社会的マイノリティーという存在だ。

例えば、精神であったり、身体であったり、性であったり、様々な形でマイノリティーは存在する。ケースによって、支援があったり全くない場合もあるのでけして一緒くたにはできないが、多くの場合、偏見・差別によって苦しめられている。自ら理解しようなどという人は少ない。“雪”と“雨”もそのような社会で苦しんできた。

異質なものは、自分らの生活を脅かす存在だ。「おおかみこども」なんてものはいない方がいい、と言われる社会で生きるのは本当に苦痛なことだ。そもそもそんな人間がいるなんて思いもしない人もいるだろう。「おおかみこども」なんてものがいるなんて考えもしない。無関心にも苦しめられているのだ。


「おおかみこども」である私

社会で隠れて日常生活を送れることが可能な「おおかみこども」は選択を迫られることがある。狼として生きるか?人間として生きるか?だ。

私の話をする。私は、対人恐怖症である。
人と話すと汗でびっしょりになり、何を言っているのかわからないほどしどろもどろになる。それは訓練によって改善するものではあったが、改善するまで十数年かかり、心を病んでいたこともある。今では、そのことを人に悟られることはなくなった。だが、仕草の端々で垣間見えるのだろう。相手の訝しげな表情によりそれがわかる。

私が、“雪”のように人間として生きることを選択した場合。
真面目な生徒(立派な正社員)になって、狼の姿にならないように(対人恐怖症の症状が出ないように)、人以上のストレスを抱えて生きなければならない。

私が、“雨”のように狼として生きることを選択した場合。
山の中へ入り(自助グループへ加わり/心療内科へ通い)、先生と呼べる相手から様々なことを教わり、山奥で狼として暮らす(「普通」の生き方を諦め、自分の生き方を優先させる)。

そのどちらが正解というのではない。人間は多様性を持っている。自分の中に“雪”と“雨”がいて、それぞれ別の場所に向かおうとする。しかし私の体は一つしかない。まるで自分の身が千切られるような苦しみを請け負うことになる。その矛盾をいかにして解消させていくのかが私の抱えている問題だ。


「おおかみのこどもの雨と雪」とは

“雪”は人間社会へ、“雨”は山へ。それは実に対照的である。そのハッキリとした姿に、その両方の可能性を持った自分自身の問題が浮き彫りになってくる。そしてそういった問題を抱えた人が観たとき、大きな意味を持つ物語に思える。
人生の選択に関して言えば、特異なマイノリティーだけの問題ではない。人間ならば全ての人が抱える問題だろう。細田守自身、アニメーションの世界を目指すときに抱えていたものではないか。この物語はそういったメッセージが込められているように感じる。

「おおかみこども」とは、未だ選択できず大人になれない私たちのことだ。
「おおかみのこどもの雨と雪」とは、私たちの抱える雨と雪のことだ。

雪は冷たいが光を反射し世界を輝かせてくれる。雨は太陽を隠し水害をもたらすが、世界を洗い流す面を持つ。そしてそれらは元々、雲の上では同じ混沌とした存在である。その二つは同じなんだ。君は雨でも雪でも同じ人間なんだよ。そう言ってくれているように思うのだ。

私はいつか選択せねばならない。雨か雪かを。もしくはまったく別の道を選ぶこともあるだろう。そして出来ることなら、贅沢すぎる願いでなければ、雨に新しい世界を教えた先生や、雪の全てを受け入れてくれた草平のように、いつかなりたいと思う。心からそう願う。

『コワすぎ!』 白石晃士監督を楽しむ3つのポイント

モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)・ホラーの二大巨頭といえば『放送禁止』の長江俊和監督、『ノロイ』『オカルト』の白石晃士監督であろう。

長江監督の良さがトリック・テクニックであるとすれば、白石監督の良さは不気味さにある。

その白石監督が待望の新作モキュメンタリー・ホラーを撮ってくれた!


『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! FILE-01 口裂け女捕獲作戦』

http://www.albatros-film.com/title.phtml?route=&titleid=1206

DVD作品ということで若干の不安はあったが、「ノロイ」「オカルト」から不気味さのクオリティは保ったままだ。

白石監督作品の面白さは強烈なキャラクターだったり色々あると思うが、ここでは3つのポイントにまとめてみた。

現実と非現実の曖昧さ

モキュメンタリー・ホラーは現実と非現実の繋げ方にあると思う。口裂け女を捕獲するという突拍子もない話なのだが、検証映像でじわじわ盛り上げて、ホームレスが恐怖への引き込み役になる。そこが実に上手い。口裂け女が本物なのか、それとも頭のおかしな女なのか判らないのも恐怖心を煽る。現実に起こりそうな事件、それがいつの間にか非現実なものにすり替わっている。

『オカルト』では俳優・宇野祥平さんがワーキング・プアでありネットカフェ難民の青年「江野祥平」を演じ、オカルト的な恐怖と社会的な恐怖を融合させ、ホラー映画の新しい広がりを感じさせた。

日常に存在するがあまり目に付かないもの、目に付けたくないものに恐怖の入り口はあるのだろう。

説明のない不気味さ

今回は特に目立って見られたが、必要以上の説明をしないことだ。

人によっては、え?結局どういうことなの?ということにもなりかねない。けれど「不気味さ」を想像させるための謎は残しておく。誰もいない真っ暗な部屋から気配を感じるみたいに、不気味さはいつも自分の頭が作り出す。そういう人間の根源的な恐怖を思い出させる手伝いを白石監督はしていると感じる。

怪談のような、どこか美しくて甘美なものではない。どんよりとじめじめした恐怖。その不気味さが好きだ。

観察者であり共犯者になる

『オカルト』以降の作品によく見られる手法だが、白石監督が白石監督本人役で出演しドキュメンタリーを撮っていき、観察者に留まらず事件に関与していく。(この手法は1992年のベルギー産モキュメンタリー映画『ありふれた狂気』に影響を受けているようだ)そして、監督が毎回ひどい目に合わされるのを期待してしまう。

視聴者は、共犯者にもなれるし、遠くから嘲笑することもできる。

今回は、白石監督作品ではお馴染みの大迫茂生さんがディレクターを演じている。この方の暴力シーンやにじみ出る雰囲気が不気味で実に良い。そしてやはり単なる観察者ではない。

残念ながら今回は監督出演なしかと思っていたが、エンドロールを見たら顔の出ないカメラマン役で出演されていて笑った。声で気付くべきだった。我々は試されているのかもしれない。


それにちょい役で『へんげ』(http://hen-ge.com/)の大畑創監督、『くそガキの告白』(http://kuso-gaki.com/)の鈴木太一監督も出演されており、ファンとしては交友関係が見られて、それぞれの監督にも興味が湧いてくるのが嬉しい。


以上が白石晃士監督を楽しむ3つのポイントである。
そしてこの作品、FILE-01とあるようにシリーズものになっている。
第二弾は、2012年8月3日発売開始。是非ともFILE-02 震える幽霊にも期待したい。
http://www.albatros-film.com/title.phtml?route=&titleid=1220

映画『くそガキの告白』はリアルじゃない

『くそガキの告白』は映画監督を夢見ているが、口ばかりで何もやらない、仕事すらまともにやらないダメな男の話だ。

夢を追いかけるが何もできない青年というと、『SRサイタマノラッパー』が浮かぶ。SRは冗談のような話の中にリアルがあって胸を突かれた。多くの人が自分の物語だと感じたことだろう。

その点、くそガキはリアルではない。

キングオブコメディ今野浩喜演じる、主人公、馬場大輔。映画仲間、友達、母親に悪態つきまくる。流石にあそこまでくそな男はいない。行動やセリフに引いてしまう人も多いだろう。

それなのに、彼の中に自分の持つ劣等感やダメな所を見ることがある。彼の叫びは酷く醜いのに、毒を抜かれたような気持ちになる。そのくそガキがくそガキなりに行動する時、救いを見た気がした。(言い過ぎかもしれない)

 

褒めすぎると良くないので悪い点も挙げると、自分はラストの持つ意味が見いだせなかった。例えば自分が作品のラストを決められる立場だったとして、どこで映画を締めるかといったらもう少し前だ。

物語は登山ガイド、読み手は登山者として例える話がある。物語は読み手を山の8合目まで登らせる。あとは読み手の想像に任せる。頂上までは自分の力で登らせる。それが優れた物語だという話がある。

それをこの映画では9合目まで見せている。読み手の想像しない話がそこにあると言わんばかりに。

ラストについては色んな人の意見を聞いてみたい。

 

『くそガキの告白』はすごく心に残るという程ではないがいい映画だ。起承転結はっきりしてて、94分で見やすいのもいい。

今野浩喜でなければ、あの強烈なキャラクターは生まれなかったと思う。あの話はリアルでないからこそ、馬場大輔という人物を愛おしく思える。

エンドロール後の馬場の顔、あのとぼけた顔を思い返すと、なぜだか少し嬉しくなる。